ゴア考察に関して自分の気づかなかった部分をP.Nあんこさんからご投稿頂きました。ラカンの鏡像段階の理論などが抜けているなど、大変鋭い指摘を受けました。有難うございました。
自分の考察は主に文章中の語句、作品全体の構成などを文章の読み方に従って読み解くものですが、ここではそれとは異なる視点からの考察です。
整理したあんこさんの投稿内容
あかね=超自我に囚われてる子
希衣佳=イドを抑えてる子
イドの化身のユカが切っ掛けで(そして黒幕)、イドと向き合わざるを得ないようになりました。
葵の場合はユカとゴアのせいで、自己嫌悪になって、現実逃避のイドを抑えきれなくて、鏡の世界に逃げ込んでしまいました。
そして恭司は信号機の超自我役だと思います。恭司によって、三人はやっとイドと超自我のバランスをとることが出来るようになりました。
(あかねはユカにとりついたせいだけど、女っぽくなりたいのも彼女の本心だと思いますので、そうなるのは彼女のイドも関わってると思うのです)
祭りの夜で恭司と初対面の時のユカも三つ編みでして、ユカはそれはお母さんが編んでくれたと言いました。
それはお母さんがユカに対して、ちゃんとイドと自我と超自我がまとまるようになって欲しいという希望を抱いてるのです。しかし最後は両親(良心)を殺した。
そしてユカエンド、その髪は多分ユカ自分で編んだと思うのです。それはユカ自分自身で、うまくその三つがまとまるようなことが出来るという成長です。
前のコメントで恭司の役ついてですが、まとめるのはやっぱりヒロイン自分自身だと思います。
ユカのせいで、三人はイドと向き合わざるを得ないようになったというのも上で言いました。
でもヒロインたちがああなる前に、もう恭司のことを好きになりました。
そしてヒロインたちの中で、ユカ(イド)の祟りと対抗するのは「恭司のそばにいたい」という気持ちだと思いました。それで、自分は恭司がヒロインの中では超自我役だと思うのです。
(あかねの場合はまたちょっと違うと思うのですが)
あんこさんの考察に対する自分なりの考え
素晴らしいと思います。情緒的な考えは苦手なので大変興味深い。
ゴアでは「汚い世界」「純愛」「人格形成」の3つが描かれているのは気づいていましたが「純愛」と「人格形成」の境界が曖昧で自分ではうまく考察できていなかった部分を投稿してもらえたのは助かりました。
上の恭司が超自我役というのは恐らく自分の考察ページでいうところの超自我よりの子供という事でしょう。もしまとめ役があるのならフロイト理論に従って自我でなければならないと自分は思います。
外国の方だそうで書いてる事と考えてる事のニュアンスが若干違うのかも分かりませんが。