純愛を代表する作品の一つと名高い『沙耶の唄』の簡易考察。ネタバレを多く含むので未プレイの方はスルー推奨です。また、この考察には作品とライター(虚淵氏)に対する批判を多く伴うのでこの作品および虚淵氏が好きで、理性的に物事を見れない方は絶対に見ないでください。
*管理人が作品をプレイしたのが随分昔なため、記憶が間違っている可能性があります。
前書き
必ず文章の読み方・書き方
を一読してから以下の内容に目を通してください。
2015/09/20追記
「
まず始めに。当サイトにお越しいただき有難うございます。
当サイトは『ゴア・スクリーミング・ショウ』や『好き好き大好き!』といった、世間から本当の価値が認められていない作品の素晴らしさをお伝えしたく作ったものです。
この『沙耶の唄』簡易考察はエロゲをプレイし始めてあまり時間が経っておられない方でも何か一つくらい知っている作品はないだろうかという事で書いたものになります。
先述の通りこの考察は後から思い出して書いたものであり、完成度が低いです。
そのため、自分の考察方法そのものが不十分なのではないかというご指摘をされる方が何名かおられました。
その度に同じ事を説明させていただいておりますが考察方法に誤りはありません。
未プレイでも今後プレイされるご予定の無い方は是非、『ゴア・スクリーミング・ショウ』や『好き好き大好き!』の考察ページをご覧になって考察方法を理解して頂けると幸いです。
考察についてご意見いただけるのは大変有難い事なのですが何度も同じやり取りを繰り返すのも不毛なため心苦しいながらもこうして追記させていただいております。
ご理解頂ける方のみ以下の内容を読んでいただけるようお願い申し上げます。
」
作品の構成について
恋人が非処女でも愛せるか
恋人が少女でも愛せるか
恋人が人殺しでも愛せるか
恋人が化け物でも愛せるか
恋人がレイプされても愛せるか
これらの心理的演出をまとめたもの。
また、沙耶の姿が少女に見え世界が醜く見えるようになった(世間的に頭がおかしくなった)主人公にロリータコンプレックスを抱く(世間的に頭がおかしいと思われる)男性像を投影したもの(後述)。
作品のアイデア自体は『火の鳥』のオマージュ。
(*虚淵氏の作品にはオマージュでは済まされないものが散見されますがこの作品はオマージュの範囲に止まっていると判断します。)
テーマについて
先に見た構成および世間の評する通り、テーマは純愛でしょう。しかしこの作品にはもう一つのテーマがあるように思います。それは恐らく少女愛であり、これこそが真のテーマだと思われます。
これについて詳しくは後述。
この作品が少女愛をテーマとしていると判断する根拠
『魔法少女まどか☆マギカ』についてまず触れなければなりません。
(沙耶の唄も同じ内容を含みますが、そちらの方が分かりやすいのでそちらを引用します。『魔法少女まどか☆マギカ』のネタバレを含むのでこれから視聴する予定のある方はスルーして下さい)
虚淵氏はその作品において「魔法少女が希望を振りまくように、魔女は絶望を撒き散らす。」
「この国では、成長途中の女性のことを『少女』って呼ぶんだろう?だったらやがて魔女になる君たちのことは、『魔法少女』と呼ぶべきだよね」
との台詞を残しています。これはつまり「(この国において)成熟した女は害悪で、少女こそ至高」だと言ってるのと同じことです(成熟した女性に対する批判)。
(魔法少女⇔魔女 = 希望を振りまく⇔絶望を撒き散らす = 少女⇔女性)
以上から見て分かるように、氏が倒錯した性の価値観を持っていることが判断できます。
(この部分が納得いかずに意見を下さる方が何名かいらっしゃいましたが書き手が「魔女は絶望を撒き散らす」と言い切っている以上、読み手の解釈の余地はありません。納得いかない方はもう一度、文章の読み方・書き方に目を通してじっくり考えてみてください)
そしてこれと全く同じ主張が『沙耶の唄』でもなされています。
『沙耶の唄』に限って述べるのなら、ヒロインの対比から判断出来ます。
この作品にはヒロインと呼べる存在が2人おり、一人は沙耶、そしてもう一人は津久葉瑶です。
この二人は「沙耶=少女」「津久葉瑶=成熟した女性」であり対比の関係にあります。
また、沙耶が一般的な恋愛シュミレーションにおいてヒロインに求められる設定から程遠いのに比べ、津久葉瑶は一途で処女なのが窺えます。
しかし主人公は津久葉瑶を性の捌け口にすることはあっても沙耶しか愛しません。
これは「たとえどんなに悪条件が揃ったとしても、成熟した女性なぞ少女の前には比べるべくもない」という批判に他なりません。
実際、主人公に想いをよせている津久葉瑶(成熟した女性)はその価値を否定されるかのように沙耶(少女)によって陵辱されます。
この作品自体が虚淵氏の少女愛の塊だと判断出来ると思います。
なぜ主人公は沙耶の本当の姿を見ずに終わるのか
(i)嘘くさくなるのを避けた可能性
言うまでもなく作品を作るにあたって考慮されるべき当然の事なので割愛。
(ii)主人公=プレイヤーのアバター、沙耶=二次元の象徴とした可能性
沙耶は異次元から来た存在だとする記述があったように思います。
これはラヴクラフトによる小説作品『異次元の色彩』から来てる表現なわけですが、それ以上に「病院の扉を挟んで向き合う主人公と沙耶」を「パソコンのモニターを挟んで向き合うプレイヤーと二次元の少女」と対比している可能性があると思います。
なぜなら沙耶の本当の姿を見ていないのは主人公だけではなく、画面の前の私達もそうだから。
(iii)主人公=虚淵氏のアバター、沙耶=虚淵氏の理想の少女である可能性
根拠は先に散々解説した通り。恐らくこれが正解でしょう。
総評
考察で作品の性質に口を出すのは御法度な気もしますが、先に書いたようなメッセージに気づかずにまどかのコスプレをしている方や氏の作品を絶賛するだけの方などは止めた方が良いでしょう。失笑を覚えます。他の作品に対する考察なんて考えていなくてもそれはそれで構いません。ですが、その無知に託けて女性を貶める内容を公共の電波に乗せて流されておいて、ヘラヘラとしている世間は流石にいかがか。
細かい所は他にもあるでしょうが簡単なところは以上。
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